『博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話』

この本、なんだか海亀のスープ風な水平思考クイズのようである。問題文を纏めるならば

「世界最高の英語辞書として名高いオックスフォード英語大辞典。あらゆる英語を網羅する目的を持って始められたこのプロジェクトは、市井の研究者、読書家、書籍蒐集家にも広く協力が呼びかけられていた。この編纂は大英帝国の威信をかけた文化事業として認識され、そのスタッフとして名を連ねることは、世界の文学界にとっても大変な栄誉ある事であった。第二巻刊行時には、ヴィクトリア女王にも献上されているが、その記念祝賀会の席に、もっとも貢献度の高いと目されている人物は、出席しなかった。その人物の住所は、会場のあるオックスフォードから汽車で一時間ほどの距離であった。さらに、編纂主幹のオフィスも同じくオックスフォードにあるにも関わらず、その人物が協力を始めてから七年間、与えられたタスクを手紙で遣り取りするだけで、彼は一度もオックスフォードの地を訪れようとはしなかった。その人物は、このプロジェクトに最も情熱を傾けていた一人であるにも関わらずだ。この人物は一体何者なのだろうか?」

博士と狂人
世界最高の辞書OEDの
誕生秘話

といった感じだろうか。そして本書は、丸々一冊が回答編として存在すると言えるかもしれない。
回答を一言で言うとタイトルにもある通り、「この人物は狂人で、精神病院に収容されて一歩も施設外へ出ることができなかった」からである。
明晰な頭脳と高い教養を持ちながら、精神病院の個室から出ることは適わぬまま、外部の求めに応じてその英知をもって助力とする医学博士。なんだか『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクター博士のような印象も受ける。そういう意味での掴みも十分で、「はじめに」で、彼の人物、アルフレッド・マイナー博士と、編集主幹であるジェームズ・マレー博士初めての邂逅が語られている。そこで、マイナー博士の驚くべき素性が明かされるのだ。
そして綴られていく、マイナー博士の生涯。。。歴史と、そして黎明期の精神医学に翻弄されたそれは、劇的である。
編集主幹として貢献したジェームズ・マレー博士の生涯もまた、まるでこの偉業を成し遂げるために生まれてきたような、運命的なものを感じさせる。
歴史的なプロジェクトの概観、辞典編纂作業のディテールは、地味だが、十分に知的好奇心を満足させる、読み物として愉しめるテーマである。だが、それに携わる人々のあまりにも劇的な生涯は、そうしたディレッタンティズムを遥かに凌駕する。「ドキュメントの重み」という、言葉では収まりきれない、重厚なドラマを感じさせるのだ。