今村昌平監督逝く

 「楢山節考」「うなぎ」でカンヌ国際映画祭パルムドール(最高賞)を2度獲得するなど世界的に知られた映画監督の今村昌平(いまむら・しょうへい)氏が30日午後3時49分、転移性肝腫瘍(しゅよう)のため東京都内の病院で死去した。79歳。東京都出身。重いテーマの中に笑いを込めた作風は“重喜劇”と呼ばれ、海外にも多くのファンを持つ巨匠だった。92年に一度映画化を断念した「遊郭の少年」を最後まで気にかけながら静かに映画人生に幕を下ろした。

 黒澤明監督もなしえなかったカンヌ2度制覇。日本が世界に誇った巨匠が静かに逝った。悲報を知り、病院には北村和夫(79)小沢昭一(77)ら早大時代からの仲間が慌ただしく駆けつけた。北村は、1週間前に見舞ったのが最後となり「今は(何も)話したくない」と沈痛な面持ちで口を閉ざした。

 眠りについた今村監督は、午後6時40分に東京・渋谷区の自宅に無言の帰宅。同9時すぎに長男で映画監督の天願大介(46)が取材陣に対応した。長年の糖尿病で足腰が弱り、しばらく車イス生活を送っていたという今村監督。4月11日に風邪をこじらせて入院し、ここ1週間ほどは呼びかけにも「うん」「うん」とうなずく程度。食事も満足に取れないまま、昭子夫人(72)にみとられながら眠るように息を引き取ったという。

 天願監督は「昨年6月に大腸がんが見つかり手術しましたが、3カ月後に肝臓に転移しているのが分かった。そのときは手の施しようがありませんでした。大腸がんは本人にも告知しましたが、転移は黙っていました」と話した。「大食漢でしたので、何かうまいものを食べさせてあげたかったが、それもできなかった。ただ、4月に入院する少し前に母親(昭子夫人)と足柄(神奈川県)に桜を見に行き、とてもご機嫌だったそうです」と静かに語った。

 病にあっても、創作意欲は少しも衰えていなかった。「黒い雨」(89年)から3年後、映画学校の校長をやめてまでも1本の作品を作ろうとしたことがあった。売春防止法施行で赤線の灯が消えていく時代背景の中で、新宿の遊郭に育った少年がやがてゲイバーでホモになっていた−−という話だ。天願監督は「心残りと言えば、これかもしれない」としんみりした。

 「鬼の今平」と呼ばれるほど厳しい演出家ではあったが、多くの役者たち、映画学校の学生たちから愛された。人間の業や欲望を描き続けた“今平イズム”は今後、教え子たちに受け継がれる。

スポーツニッポン 2006年5月31日

俺の認識では、文芸映画の巨匠という印象で、その作品をオンタイムで観たものは殆ど無かった。『うなぎ』みたいな映画の味わいは、やはり観る側の人生経験に大きく左右されるなぁと感じており、要はガキお断りの、ある種ガチな作風であったと思う。
ガキお断りという意味では、川島雄三監督の元で助監督として積んだキャリアの賜物なのであろうと。もちろん、川島監督とはアプローチは異なるわけだが。
不惑の歳も近づいているのに、まだまだ大いに悩みあがき続ける事は必至の俺人生、昔の作品をまとめて見直したいと、思った。
謹んでご冥福をお祈りします。