『キング・コング』

まさに「ウホっ!イイ男」コングの男前、魅せます三時間!

キングコング
たらこせる画伯も言っていたが、上映時間三時間という長丁場は、観る前にそれ相応の覚悟が必要である。というわけで、酒びたりの年末年始を終えて、休日最終日に出撃したよ、MOVIXさいたま。
ピーター・ジャクソンという監督はジャンルに忠実な職人監督であると俺は思っていて、本作も期待に違わぬ出来栄えの秘境探検+冒険活劇+怪獣映画であったよ。
導入部の、大恐慌時代のニューヨークの描写、そうした時代を背景にした主要登場人物のそれぞれの事情など細かく描けていた。それでいて冗長になることもなく上手く纏めつつ、ココがキモだと思うのだが、ナオミ・ワッツ演じるアンの魅力*1をさりげなく、だがキッチリ描いているところが心憎い。後述する土人の群れに加えて、大怪獣が跋扈する絶海の孤島に、一分一秒だって居たくはないのが人情。まして、体長7mを超えるマウンテンゴリラに拉致された段階で、ポルノリーチのスクリーミングガールの為にだれが好き好んで、命がけの救助隊を編成するものか!
引篭りピアニスト*2を除く他クルーたちの「あの娘のためならば」という能動的な姿勢は、前近代的ヒロイズムをお約束として踏襲するのではなく、冒頭の老コメデイアンのセリフや、貨物船内でのロケシーンを通じて、みんながアンを愛しているというベクトルに向けているところが、素晴らしいと思う。


一方、「21世紀にこれはどうよ!」という良識派からの野暮極まるツッコミが予想される、髑髏島原住民の皆さんの描写。素直に「土人怖ぇえ」と思える、モンド感溢れる演出。こういうところのセンスやバランス感覚が、ピージャクのすごいところである。
中盤のロストワールド描写もしかり。これでもかとばかりにサービス満点で、特に、疾走するブロントザウルスの群は、小型恐竜や人間を踏み潰すエグい描写をアクセントに、基本的にはカートゥーン調に構成されているところが憎い。
コングvsティラノサウルスズは、まぁ、敢えて俺が触れる必要は無いだろう、満点の出来栄え。むしろ俺的刺さり所は、アンを連れたコングが自身の住処に戻ったところだ。骸骨島を一望できる高い高い山の洞窟。その中には、キング・コングサイズの巨大猿の白骨がゴロゴロ転がっている。グラップラー刃牙』の夜叉猿の住処のようである。そこで、暮れなずむ髑髏島を一望に見渡しながら、コングとアンの心が通いあうのである。アンの崖っぷちコメディエンヌという設定が、ここで生きるのだ。文字通り体を張った芸は、物言わぬ野獣に自分は食い物ではなく、何か特別の存在であることを理解せしめるのである。コングの立場としてみれば、食い物と敵以外の存在を知る術は今まで無かったわけである。累々と横たわる先代コング達の亡骸が、秘境の王者の悠久の孤独を無言のうちに、見る者に理解させているのだ。
そして。。。。コングが僅かに反応を示す人間の言葉が"beautiful"だ。ブロンド美女と野獣というアイロニーの構図において、美の概念を夕日に照らされる景色をもって記号化しているところが凄いと思う。ここにおいて、アンとコングは等しく同じ感情を有する。女が美で怪獣が醜という、これまた「キング・コングもの」共通のお約束を一気に覆し、かつ、ラストに至るコングとアンの関係性を「もののあわれ」に収斂しているのだ。このシーンは泣けた。無論、このシーンはラストへの複線。エンパイアステートビルのてっぺんで、朝焼けに照らされるニューヨークを眺めるコングとアンの姿に呼応するのである。
この映画の結末は誰もが知っているわけで、そういう意味でもカタルシスは薄い。だが、この美しい絵面が溜となってコングの悲劇性をいやますのである。
先述したコングとアンの関係性や、ハイドパークで戯れる二人の構図を考えると、「マイティー・ジョー」な終わり方でも纏まりはついたような気がする。だが、キング・コングエンパイアステートビルから複葉機に打ち落とされなくてはいけないのである。その不文律に忠実なピージャクは、やはり偉大なるジャンル将軍であるなぁと、つくづく思ったのであった。

*1:少なくとも、劇中の男たちが感じるソレ

*2:エイドリアン・ブロディな。