標高二千メートルのデザ・バリモ 美ヶ原高原美術館

そういえば、バブル真っ盛りの頃、頻繁にオープン記念のCMを目にしたなぁ。鹿内一族が、金にあかして作った屋外美術公園だった事を思い出す。歩き出しているうちに、またガスが立ち込め始めるが、幸いにして気温はそんなに低くない。
現代彫刻だけを収蔵しているので、全体に脈絡がない。だが、歩みを進めるごとに、異様なオブジェが靄の間に間に現れる景観は、とても面白い。モダンアートというのはどうにも性に合わないのだが、屋外にあるという事で、こうも親近感を抱けるものなのだなぁ。もうはしゃぎまくって、ケータイデジカメでばしゃばしゃ撮り捲くる。が、どうしても、画面が暗めになってしまう。ガスが立ち込めているとはいえ、屋内より遥かに明るいのだがなぁ、残念。

歩けども歩けども異形の群れ、尽きることがない。それぞれに尤もらしいタイトルが冠せられているが、製作者の意図だの込められた真意だのは糞食らえ!設置という形で製作にピリオドが打たれた作品は、最早作者のものではない。観る者の印象や主観によってのみ、その存在に意味が付与されるのだ。そういう意味では現代芸術において、最もコンテクストの頸木から遠いところに存在するのは、彫刻なんだなぁと思った。
標高二千メートルという立地は、初夏から秋の始まりまでしか人が入ってこれない。展示品が展示品である為には、見る者の存在が不可欠である。これから始まる長い冬の間、この美術館の収蔵品たちは純粋に「存在」でしかない。観察者がいない以上、意味も価値も付与されないのだ。と思うと、得も言われぬ寂寥感とともに、今ここで見られている彫刻たちの存在感はいやまし、狂おしいほどの愛おしさが込み上がってきた。

などと、小難しい言葉を小悧巧ぶって並べ立てなければ、感動を言い表せないのは、俺の穢れなのだろう。庭内のそこここで発せられる、「おっぱいでけぇえ」とか「お母さん、ちんちん」とか、あるいは言葉すら知らぬままにただ泣き出し笑い出す、家族連れの子供の有様が羨ましいのであった。