新聞メディアによる虚偽の発行部数事件から得る教訓――信頼できる数字を

アメリカの事例であるが、日本でもないとは言い切れない。もっと影響力があり、活字メディア企業の有力なグループ企業であるTV局の不祥事。メディアの信頼性という意味では、大きく信用を損なう報道捏造事例は事欠かないし、視聴率捏造の事例は、読売新聞≒日本テレビの事件がついこのあいだあったばかりだからだ。
マスメディア従事者は二言目には、「報道の中立」だの「報道の義務」だの「社会の木鐸」だののたまうが、所詮は広告による収益を絶対に無視できないビジネスモデルで成り立っている一企業に過ぎない。
企業である以上、コンプライアンスの遵守は避けて通れまい。当然の事を当然に問題意識を持っていれば良いのだが、どうもそうではなさそうだ。
雑誌などの場合、媒体力を判断する数字に「発行部数」と「実売部数」という二重の数字*1を持っている。「発行部数」は言うまでもない、発行した部数である。「実売部数」は、実際に売れた部数である。当然、「実売部数」は「発行部数」よりも少ない。日本の場合、返本制という書籍販売店にのみ極めて有利な制度があるため、製造物が売れない責任を流通は一切負わないのだが、そうした事を諸々含めたギャップが「実売部数」と「発行部数」の間にはある。ひどい時には、30%からの開きがあったりする。にも関わらず、発行元が広告営業に利用するのは高め見積もりの「発行部数」の方である。何を勘違いしているのか、広告主をナメ切った態度が、半ば制度化した慣習としてまかり通っている。
こうした市場の現状を踏まえれば、より数字にシビアなアメリカで行われている「不正」が、クライアントチェックの甘い日本で行われていないわけはないだろうし、同じ活字メディア、雑誌でやっている事を新聞がしないとも思えない。
普段偉そうな事言っているだけに、不正が発覚した時のダメージは大きかろう。活字メディアは、自分たちは一企業体である事に立ち返り、企業存続の意義は「利益の追求」と「社会貢献」の2輪で成り立つという事をよく理解して、体質改善に努めたほうが宜しいかと思う。


*1:更に、「公式発行部数」と「刷り数」というのがある