幼稚園から小学校五年生の一学期まで、東京都保谷市、今の西東京市に住んでいた。前からもう一度行ってみたいとは思っていたのだが、なかなかきっかけが無いまま、三十年近く経ってしまった。先年デジカメを購入したことだし、GWにすることも無いので、ネタ探しに行ってみることにしたのだが。。。。人生終いに入っているような企画である。ここ数日の間に、勤め先/家庭ともに、上がり寸前の煮詰まり状況になったこともあり、まぁいいか。
保谷駅に着いて、いきなり迷う。ランドマークは西友のつもりだったのに、すでに閉店してるし(w。*1
一度も入ったことの無い寿司屋やパチンコ店は健在だったので、なんとか方向感覚を取り戻すが。。。変わったなぁ、駅前。寂れた感じがする。結構大きくて、りっぱな店構えだった北京料理店武蔵野*2が無くなっている。代わりに、バーミヤンとスリーエフと、なんか和食系のファミレスが営業していた。
とりあえずテクテクと都立保谷高校を目指す。すぐ近所が、当時住んでいた家なのだ。
駅前の商店街を外れたところにある歯医者が健在だったのは驚き。三十年の歳月を感じさせる寂れ方で看板の文字が一部外れている。てか、二代目にバトンタッチしているにしても、相当な年だろう。自分のところの看板からし虫歯状態の歯科医に、誰がかかるのだろうか?
この歯医者の隣には、当時入り浸っていた駄菓子屋があったのだが、これは当然潰れている。その後には一般の民家が建っているのだが、これが悪趣味極まるなんちゃってログハウス。なんだか凄く悲しい気持ちになってしまった。

馬塚
竹薮があった
打ちっぱなしのゴルフ練習場も健在だった。が、そこに至る道筋の空き地や、戸建の公団住宅は全て無くなり、マンションやモダンな建売住宅になっている。ゴルフ場を抜けると、通り沿いにあった遊び場ポイント。。。。であると同時に、一生のトラウマを背負う羽目になった小山が。。。。見る影も無くなっていた。小山といっても子供のスケール感であり、実際は塚程度のものである。どのくらい前に遡るのか覚えていないが、保谷に里を開いた開祖となる人物が、この地にたどり着いたときに息絶えた愛馬を祭った塚*3だったそうだ。熊笹にびっしり覆われ、塚の天辺には墓石程度の石碑、麓には、少なくとも140cmはある大きな一枚岩の石碑があったのだが、全く取り払われている*4
道を挟んだ塚の向かいには竹薮があったのだが、これも取っ払われている。何故か棕櫚の木*5だけがポツリと取り残されていた。地面に何本か突き出ている竹の切り株が竹薮の名残である。つまり、ここ数年くらいの間に、竹薮は伐採されたのであろう。理由が想像つくだけに、これも物悲しい。


すっかり町並みは変わっているのだが、昔住んでいた家は健在だった。無論、痛みは激しいのだが、当時としても古い部類に入る家だったのに、これもちょっと驚きだった。
保谷高校の脇を抜け、一番の遊び場だった雑木林に向かったのだが、驚いた。これも殆ど木を取り払われ*6保谷高校の敷地の一部になってしまっていた。林と民家の庭が地続きになっていたのだが、ここにも道が作られていた。雑木林と西武線線路にはさまれた開けた空き地だったところだ。戦前の桑畑の名残だったという。一本だけ残っていた桑の木の実を、毎年夏には口を真っ黒にして貪り食ったものだった。やたらトカゲの多い場所でもあり、今時分から秋までのペット*7には事かかなかったものだ。
元自殺の名所
かつては無かった道を線路沿いに歩いていくと、第二のトラウマポイントである、無人無遮断機踏切に出る。流石にここは遮断機が設置されていたが、俺が住んでいた頃は、地元の自殺のメッカだったのだ。なにせ都立高校の真裏だ。受験に失敗しちゃ飛び込み、五月病になっちゃ飛び込みと、飛び込み自殺は春の風物詩であった*8のだ。当時はまだ踏切も板敷きで、ベットリ染み付いた血の染みは梅雨の長雨に晒されるまで、クッキリ残っていたものだった。当然この踏切を使う経路は、通学路にはなっていない。だが、学校までの道のりのショートカットであり、在学中の下校時は、必ずこの踏切を通って帰ったものだった。


というわけで、踏切を越えて、かつて通っていた小学校へ向かう。通学に使っていた路も大きく様変わりしている。地元の農家の庭がバカでかく、庭の中に竹藪だの雑木林などがあったりした。生垣は、大人の背よりも高いヒイラギが植えられていた。それが延々続く道なので、舗装道路なのに昼でも暗い上、曲がりくねっていて見通しも悪い、いろんな意味で危険な道だったが。。。。雑木林はほとんど見る影も無く、ご多分に漏れずマンションが立ち並ぶ、実に詰まらん風景になっていた。
六角校舎
市名が変わっても、学校の名前は変わらず。当時としてもモダンだった六角校舎*9も、古の卒業生が卒業制作でこしらえた遊具*10も健在。木製の旧校舎*11は、風の噂で取り壊されたと聞いていたが、確かに鉄筋コンクリートの面白の何も無い校舎に変貌していた。
通りに面した校庭の隅にプールがあった。これも健在だが、通り側には俺の身長よりも高い鉄製の塀が目隠しとばかりに立てられていた。昔はただのフェンスだった*12のだが。これも理由が想像つくだけ*13は、住宅街のド真ん中にあった、ちょっとした商店街の一角にあった。この商店街、当時としても寂れた雰囲気であり、床屋の他には、パン屋と漬物屋と酒屋と今のリサイクルショップ調な変な店しか無かった。漬物屋では味噌も売っていたが、当時でも珍しい量り売りの店だったのだ。これはご覧の通りのありさまで、ただの更地になっているところが、また何とも物悲しいのであった。


三宝寺池
昼過ぎまでウロウロと、精神的な里帰りを果たし、その後石神井公園に向かう。ここは実は、いまだかつて行った事が無かったのだ。昔から水不足に悩まされている関東ローム層三多摩において、石神井池三宝寺池は湧き水でできた池なのだそうだ。季節的にムシムシ大行進というわけには行かなかったが、結構楽しめるポイントであると思う。少なくとも、にわかカメラ道楽者には、被写体の宝庫。相当経験地を積む事ができた。


夕方まで石神井公園を歩き回り、池袋へ出る。サンシャイン近辺で、トワイライト〜夜の風景をパシャパシャと収める。帰りにビックカメラ寄って、フォトショップエレメンツ買う。今日のところはインストールまで。

*1:西武線沿線なのにこの体たらく。市街のコンビニも、7-11ばっかり。あろうことかスリーエフまで出店しているのは、人事ながらどうかと思うぞ、西武グループ

*2:跡地に三店舗入るキャパの店だった。一回しか連れて行って貰っていないが、中華街にでも行かなければお目にかかれないような本格派の肉まんが印象的だった。

*3:と、小学三年生の社会の時間に習ったぞ。

*4:大方、ゴミの不法投棄で収拾つかなくなったのであろう。だが、藪を払いフェンスまで張り巡らしながら、塚は潰さず石碑だけ移動するというのは、如何なる理由があるのか?

*5:どういうわけか、竹薮の中に棕櫚が植わっていたのだ、当時も。

*6:全部伐採していないところが、謎。

*7:VSカナヘビ、VSオオカマキリ、VSザリガニなど、異種格闘技のプロモーター。。。ちゅうかなんちゃってネロな子供時代であったよ。

*8:ちなみに俺が住んでいた七年間、この踏切で普通の事故は一回も無かった。

*9:蜂の巣を模した六角形が幾何学的に配置されていた。でも、教室は六角形では無かったような。。

*10:通称ピョンちゃん。コンクリの塊である。

*11:当時でも相当年季の入った校舎であった。階段の手摺は、しがみ付いたり跨ったりして滑り降りる悪童の服でツルツルに磨き上げられていた。角まで磨耗して丸くなっていたのだから、子供のやる事ってのは世代を超えて、殆ど進歩しないんだね。

*12:夏休みのプール通いで、たまたま通りをクラスメートが歩こうものなら、ザバザバ水ぶっ掛けて遊んだのに。。。相手が親と一緒でもそれやったからなぁ。子供のやることは進歩しないしそれが理由で目隠しされたか?

*13:変態は殺しとけ。)に、悲しい気持ちになってしまった。
その後、いろいろそぞろ歩く。昔一回だけ、餅つきに行ったことのある農家が廃屋になっていた。まぁ、これは単に、取り壊すのを面倒くさがっているだけであろう。同じ敷地内に新しい家が建っていたし。 子供の頃よくお使いに行った肉屋と八百屋はまだ健在だった。その隣のスーパーもどきの店は、本日休業の雰囲気。これは驚いた。また、蕎麦屋もまだ顕在だったのにも驚いた。この蕎麦屋は、出汁を取った後の鰹節を天日干にして再利用する悪徳蕎麦屋であったが。しかも食い物屋の癖にあろうことか犬を飼っていた。このクソ犬が、干している鰹節に小便ひっかけてたりするんだよなぁ。その光景を目撃して以来、二度と出前を頼まなかったのだが、まだ保健所にも刺されず営業していようとは。未来永劫この店の蕎麦を食うことは無いので、純粋に人事として、笑ってしまったよ。

鐘突き堂
幼稚園があった寺に行ってみると、最早幼稚園は廃業した模様。りっぱな本殿の建て増しと、檀家集会所という建物が、幼稚園のあった所に建っていた。少子化坊主丸儲けの世相が一目できる風景である。鐘突き堂は昔のまま残っていたが、たしかここには池があったような。名残の橋だけが、トマソン状に地面から突き立っている。
商店街だった
昔通っていた床屋((『ゲッター・ロボ』も『漂流教室』も『灰になった少年』も『愛と誠』も、各誌掲載時にここの床屋で読んでいた。