『ホテル・ルワンダ』

良くも悪くもエンタメとして面白い、実録ジェノサイド
シアターN渋谷。元、ユーロスペースにて鑑賞。作りは変わらず二本掛けられる小屋なのだが、公開にいたる紆余曲折もあり注目度も高かった本作。時差30分ほどでフル稼働シネコン状態。どちらも満員御礼の様子であった。
冷戦構造の終焉と共に新たな対立抗争として浮上してきたのが民族紛争。これは、余人には計り知れない、長く根深い闘争の歴史が存在し、単純に人道的介入を国連常任理事国が行えば良いというものではないのだ。そしてそこに大国の思惑というものが絡んでくるから、話は余計にややこしくなる。
その辺の、大国≒先進国がどう考え、どう動くかは、ニック・ノルティ大佐がジレンマに苦しむ「平和維持軍不介入」の原則であったり、ホアキン・フェニックスの言う「(フツ族ツチ族が)どっちがどっちか区別がつかない」「この映像を見た世界の人々は「お気の毒に」と顔をしかめ、ディナーを続ける」という言葉に収斂されているだろう。
劇中、平和維持軍の兵士が、フツ族民兵に殺された事を暗示するシーンがあったが、好き好んで自国民を国益になんら寄与しない戦争に送り込む指導者はいないのだ。1994年当時政権一期目であったクリントン大統領は、後第二期目1999年に起こったコソボ紛争時に、「自国の国益を最優先*1する」旨明言して、撤兵している。この処置は人道的見地から非難の声も上がっていたようだが、個人的には、まったく間違っていないと思っている。
「人道」という「情」の論理で、局所的な部分を持って国際紛争/民族紛争を語ることは、床屋政談以外の何者でもない。国家の指導者たちがまず第一に考えるべきことは、国益である。そういう意味では、コソボにおける、そしてルワンダいおけるクリントン氏の決断は彼個人の資質というよりも、アメリカ大統領として極めてマニュアル的であったと見るべきではないか?さらに言うならば、自国民の犠牲者が出たときに、間髪を要れず武力介入を決断するのもまた、アメリカ大統領の基本姿勢である。すべては国益が優先するという明確な姿勢*2は、頼もしくもうらやましい。最前線に武装もさせずに自衛官を派兵する、日本の主導陣のなんと鬼畜な事であろうか。
。。。。といった事を考えてしまうのだな。確かに、酸鼻を極める凄惨な虐殺だが、常日頃由の薄い国の内紛は、ある種ドラマ的にしか認識し得ないのだ。また、ドン・チードル演じる支配人一家の家族の絆にフォーカシングしている展開にもまた、虚構性を濃密に感じてしまうのである。だからといって、この映画が製作された意味や、多大な苦労の元に日本公開に漕ぎ着けた意味や関係者の努力をクサすつもりは毛頭無い。日々のニュースの中でも、まり重要視されない。。。。我々にとっても、ホアキン・フェニクスの台詞のような「現実」でしかなかったルワンダ虐殺という事実のレイヤーが上がった事にこそ、意味があるのであろう。
んで、本作を見終わって第三世界の民族紛争のレイヤーが上がった俺の頭に浮かんだのは、H・P・ラブクラフトが創出した「宇宙的恐怖」の概念であった。ラブクラフトが創り出した邪神と現生人類の関係性*3について「我々が蟻を見て、なんか特別な感情を抱き、自身の行動や思考に何か影響を及ぼすだろうか?」と語っている。ルワンダで起こっていた事を目にして、あるいはこの映画を見て、んいか生活態度や習慣を改めるか?少なくとも俺は、この感想文を綴る以外なんのアクションも起こさないであろう。そして。。。。。日中、日朝関係が拗れに拗れ武力闘争にまで発展したとしても、そして、中国人や北朝鮮人に日本が蹂躙されて日本人が大虐殺されたとしても、世界の殆どは、ルワンダの実情に対する先進諸国民程度の認識しか抱かないのである。。。。なんとも空しくうそ寒い、嫌な恐怖感を感じてしまった。


*1:苛烈な先頭において、米兵の犠牲をこれ以上出したくないというのが主旨。

*2:国益/報復を隠れ蓑に、親子二代に渡って自国兵士とイラク民間人の血を持って私服を肥やした猿親子は、万死に値する極悪人であると思われ。でも、ヒトラーと同じくアメリカ国民が選挙で選んだ指導者。。。猿息子は、投票操作をしていたからヒトラー以下か。

*3:クトゥルフに代表される邪神達を、キリスト教善悪二元論を元に錬金術四大元素に振り分けたオーガスト・ダーレスの愚考を諭した書簡で語っていたと記憶している。